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ユリウス・フォン・ビスマルク『ザ・スペース・ビヨンド・ミー』(恵比寿映像祭2012)

第四回恵比寿映像祭に出品されているユリウス・フォン・ビスマルク『ザ・スペース・ビヨンド・ミー』について。

まず最初にだいたいどのような作品なのか描写してみる。真っ暗な円形スペースの真ん中に映写機が置かれている。観客は、入り口を入ってすぐ左側の壁に少し空間を残した形で円形の壁に沿って位置取るように求められる。上映がスタートすると、先ほどの壁の余白の部分に映像が投影され、蛇行を繰り返しながらゆっくりと左から右へと壁上の映像が移動していく。それにつれて観客も左から右へと動いていくように要請される。特殊な感光性の塗料が壁に塗られていて、投影された映像の光の痕跡が白い壁の上に残されていく。約一時間ほど光を留めておくことができるそうで、上映が一時間に一回毎時30分から始まる時間制になっているのはそのためである。古い機材を用いているため場合によっては機材不良で上映中止になることもあるらしい。映写機は撮影時のカメラと同じ動きをするようにプログラミングされているのだという。(確認するのを忘れていたが、もしかして撮影と映写両方を兼ねるカメラだったのだろうか?)

今回の恵比寿映像祭のテーマ「映像のフィジカル」に沿った作品であるととりあえず言えるだろう。撮影時のカメラのフィジカルな動きが上映の際も観客の目の前で再現され、普段映画を見る際に隠されている映写機も観客よりも堂々と空間の真ん中に位置を占めている。そして観客もまた映写機と映像の動きに合わせるようにしてフィジカルに動くことを強いられる。映像装置側のフィジカリティと観客側のフィジカリティともに露わにされていると言えるだろう。(言うまでもなく、背後から前方に投影される映像を深く座席に身を沈め静止した状態で観る通常の映画装置においては両者のフィジカリティともに隠蔽されている。)

さらに、感光性の塗料の塗られた壁には映像が残像として残っていくので、映像が移動していくにつれてフィルムのコマのように過去のイメージが壁上でフィジカルに存在していて、現在のイメージと共存している。(複数のイメージの共存という意味で前沢知子の作品との共通性も感じられた。) それに加えて、プロジェクションを成立させるためになくてはならないもの、それがなくては撮影という行為自体が成り立たないもの、つまり光が、感光性塗料によってフィジカルに壁の上に蓄積され存在させられてもいるのだ。

では、この作品は、映像作品を構成している(が普段は隠蔽されてもいる)フィジカリティを露わにしただけの作品なのだろうか? 映画は映画でしかないのだよと言うだけにすぎない、self-reflexiveなメタ映画にすぎないのだろうか?

だが、この作品が興味深く思えるのは、そのようなフィジカリティの露呈だけでなく、それと同時にフィジカリティを前提とした上でそれを超えるもの(メタ・フィジカルなもの?)をも顕在化しているからではないだろうか?

今まで映像内でどのようなことが起こっているかは触れてこなかったが、基本的に全裸の男が起伏のある地形を動き回っているだけの映像だ。(映像はかなり不鮮明で、正確にどんな場所なのか、男が何をしているのかは分かりにくい。) しかし、時折男は動きを止めそれにつれてカメラ=映写機も静止するので、感光性の塗料は同じ箇所に長く静止した分だけ光を多く吸収するため、再び映像が移動を始めると、比較的鮮明な像が静止した場所に残されていたことが分かる。壁に残存した裸の男の痕跡はまるでイエス・キリストの聖骸布を思わせるもので、壁に蓄積された光を身体から発しているため(絵画においてキリストは自ら光を放っている者として描いていなかっただろうか?)、なおさら神々しいものに見えてくる。不鮮明な像であることもまた、より聖骸布への類似性を高めているように思える。さらに、静止していた男=映像が再び動きを開始するとき、動き出した身体が静止していた身体からおもむろに離れていく様もまたまるで幽体離脱する霊であるかのように見える。

このようにして、唯物論的な映像のフィジカリティを露わにしたように思われたこの作品が、フィジカリティを通じてそれを超えるものをも同時に顕在化させているように思えるのだ。(ここではとりあえずフィジカリティを超えたものを何と呼ぶか、それに対する是非を問うことはやめておこう。) 映像はもちろんフィジカルな仕組みなしには存在しえないものであるにしても、映像をフィジカリティに還元することはできるのか、映像を成り立たせているメディウムとは何なのか、それとフィジカリティの関係はどういうものなのか、といった問いを観客に投げかけてくるという意味でこの作品は貴重なものであると思う。

栃木県立美術館「画像進化論」

栃木県立美術館で「画像進化論ーメディア的進化と創造的退行のダイナミズム」展。ほとんどの出品作が栃木県美の所蔵品というコレクション展ではあるが、ピーター・ガラシの「写真以前」などを援用しつつイメージの進化をテーマとした一風変わった展覧会。会場入り口に簡単なあいさつのパネルがあるだけで、他に展覧会趣旨や作品を説明したパネルは皆無。しかし、細かいテーマ分けはいくつもあって、「遠近の擬態」「熱学的画像」「視覚的断崖」といった俄かには意味を図りかねる小テーマ名が壁の上部に書かれているだけ。そもそも「画像進化論」という展覧会全体のテーマも馴染みのないものだし、細かいテーマ分けも抽象的なので、展示を見ただけでは担当学芸員の展示コンセプトを完全に理解するのは不可能だろう。

しかし、これは別に展覧会の不備というわけではなくて、画像進化論という枠組みは展示構成やテーマによって提出しつつも、むしろ観客にそれにこだわりすぎることなく自由に見て欲しいという配慮なのだろう。もし展覧会のコンセプトを詳しく知りたいというならば、図録(ショップで1000円で販売)を参照して欲しいということだろう。

したがって、この展覧会を見るときにはあまり「画像進化論」や小テーマ分けに囚われすぎることなく作品を鑑賞しながらメディウム同士の関係性にも思いを巡らせるくらいの方が良いと思う。そうやって見るならば、所蔵品ながらもバラエティ豊かな作品が展示されていて作品間の関係についても考えさせられるしなかなか楽しめる展覧会だと思う。

画像進化論とはごく簡単に言えば、経済的原理において絵画→写真→映像という進化の過程があり、以前のメディウムは次々と淘汰されていってしまうのに対して、芸術という「ガラパゴス」的特殊分野においては進化に対して「退行」があり、そこに芸術の豊かな可能性を見い出すことができる、といったところだろうか。

だが、そもそもイメージにおいて直線的な進化を見い出すことが正しいかどうかという問題があるだろう。図録のなかでジョナサン・クレーリーが何度も参照されているが、クレーリーの議論はむしろそのような進化論に反するものではなかっただろうか?

そのように、展覧会のコンセプト(や図録論文)にはいくつか疑問がないわけではないが、単純に展示だけを見るならばなかなか大胆なものであり、年代順に並べられただけの退屈なコレクション展に比べれば断然面白い。ボイスと若江漢字作品の展示方法に一部疑問が呈されていたが、ヨコトリのライアン・ガンダーとリヴァーネ・ノイエンシュヴァンダーの水晶・シャボン玉繋がりに比べたら嫌な感じはしなかった。細かいテーマ分けなどは良い意味で胡散臭さを醸し出していて、「客観的」でメタ・ポジションからのキュレーションという印象は個人的にほとんどなかった。学芸員が普段から馴染んでいる所蔵品であるし、あのぐらいやるのもアリなんじゃないかと思う。

上述したように、イメージの進化論という大げさなテーマよりメディウム同士の関係を考えつつ作品を鑑賞するぐらいの態度の方が楽しめる展覧会だと思う。その上で画像進化論というテーマに興味を持ったならば図録を購入して担当学芸員である山本和弘氏の論文を読むこともできる。あと一部作品はただ見ただけでは作品の「意図」が分からないものがあるので、展示室内の椅子におかれた図録の作品解説を読むというのもいいと思う。

栃木県立美術館の「画像進化論」展は9月19日まで。

「路上 On the Road」 東京国立近代美術館常設ギャラリー4

東京国立近代美術館の常設での展示「路上」(ギャラリー4)。毎回学芸員によるコレクションを用いたユニークな展示が好評なギャラリー4での展示だが、今回は蔵屋美香さんによる「路上 On the Road」という企画。期待に違わずとても面白かった。

路上のエッセンスとも言える「長い距離の移動と長い時間の経過」をいかにしてアーティストが作品の矩形のフレームに収めてきたか、ということがテーマとなっていて、それを様々な形で行った作品が展示されている。一点透視法を用いて道の長さ・奥行を表した東山魁夷の「道」や岸田劉生の「道路と土手と塀」から始まり、野村仁の「道路上の日時」や荒川修作「アルファベットの皮膚 No.3」、そしてラウシェンバーグの「ポテト・バッズ」、奈良原一高の「ブロードウェイ」シリーズといった多彩な作品が展示されている。今回一番の売りというか注目点は約7.5mのエド・ルシェー「サンセット・ストリップ沿いのすべての建物」(1966)と約4.5mの木村荘八「アルバム・銀座八丁」(1954)を特製展示台に世界で初めて並べて展示したことだろう。時間を隔ててほぼ同じ試みを互いを知らずに行っていたということが興味深いし、隣に並べて観るとさらに面白さが増す。(まあ、本の形式になっているわけだから、本当はできれば手に取って眺めたいところではあるけれど。)

美術作品においていかにして時間ー無時間性も含めてーを捉えるのかということは最も大きな問題のひとつであって、今回の展示では「路上」というテーマを通して様々な時間を孕み持つ作品が展示されているのが魅力的である。(距離もまた踏破されるべき時間であるとするなら、今回の展示はまさに時間をめぐるものだと言えるだろう。) 一点透視法によって表象される奥行きとしての時間(東山魁夷、岸田劉生)、路上にチョークで時刻が記されているのを捉えた写真の連なり(野村仁)、ある通りを縮小した形ながらそのまま(とは必ずしも言えないけど)撮影して横に繋げた写真(エド・ルシェー、木村荘八)、直接キャンバスにタイヤ痕をインデックスとして印し踏破された距離を現物大で示した絵画(荒川修作)など。改めて美術における時間の問題について考えされる良い機会となった。

さらに、ただ作品が並べられているだけでなく、丁寧な解説パネルが作品の傍に掲示されているので展示意図が明確に伝わってきた。特に印象に残った展示は荒川修作「アルファベットの皮膚 No.3」、ラウシェンバーグ「ポテト・バッズ」、ルシェー「サンセット・ストリップ~」という辺り。荒川やラウシェンバーグの作品が、水平な路上にあるもの(タイヤ痕や落ちていたダンボール箱)を90度回転させて垂直な壁に設置したものだとするなら、ルシェーの「サンセット・ストリップ~」は垂直に立っていたものを写真という形で逆に90度回転させて水平な台に置いたもの。その二方向の回転をつなぐかのように垂直の壁と水平な床両方に写真が貼られた野村仁の「道路上の日時」がある。

毎回恒例の無料配布の小冊子は今回もとても凝っていて面白い。実物を見るとわかるが、この展示ならではのデザインで、必然性のある形。普段は担当学芸員の方が小冊子に文章を執筆する場合が多いが、今回は担当学芸員の蔵屋美香さんだけでなく上崎千氏の文章も掲載されていて、いつもより読み応えのあるものとなっている。二つの文章のレイアウト自体もこだわりのあるもので、展示作品と呼応する形になっており興味深い。
 
「路上」展は東京国立近代美術館常設2階のギャラリー4で7月31日まで。パウル・クレー展の際にどうぞ。
http://www.momat.go.jp/Honkan/On_the_Road/index.html

「MOTアニュアル2011」東京都現代美術館

東京都現代美術館で開かれていた MOTアニュアル2011に行ってきた。MOTアニュアルは毎年東京都現代美術館で開かれている、若手作家を集めたグループ展。今回は「Nearest Faraway 世界の深さのはかり方」というテーマのもとに6人の日本人作家が出品している。

まず、最初に冨井大裕の作品。冨井はスポンジやダンボール、画鋲など、日用品をほんの少し変容させて作品をつくっている作家。元の日用品が何か分からなくなってしまうまで直接個々の素材に手を入れることはなく、主に配置の仕方であったり色の組み合わせ方によって作品として成立させていくその手際がとても刺激的。日用品と作品との際、あわいに存在するというか、日用品でしかないものが作品へと立ち上がってくるその瞬間を垣間見させてくれる作品だと言ってもよいだろう。
 
日用品が本来の用途から引き離され、異なった秩序のなかに置かれることによって今までと違った側面が見い出される。といっても、凝りに凝った特殊な並べ方をするのではなくグリッド形式など規則正しく物を配置するのが特徴的。しかし、ただ単調に並べられているだけでなく、同時に少しの変化が加わっていることによって作品の魅力が増している。例えば「ゴールドフィンガー」という作品はただ大きな壁に矩形となるようグリッド型に画鋲をひたすら突き刺していっただけと言ってもよいようなものなのだが、おそらく手でひとつひとつ刺していったせいか少し曲がっていたりして画鋲ごとに刺さり方が違っている。そのため見る場所が違っていたり周りを動きながら見たりすると、画鋲が光を反射する仕方がその都度変化していき様々な表情を呈するので、観者はついいろいろな方向から作品を何回も眺めてしまう。

あと、もう一つ特徴的なのはそこら辺にある日用品を用いていたり作品自体も簡単な加工しかしていなかったりするものが多いせいか、観者の方が同じものを作ってみるよう誘われるというか、真似したくなってくる。自分でも日用品で同じような物を発想し作り出すことができるのではないかと思えてきて(もちろんそう簡単にできるものではないのだが)、そういった発想で周りにある卑近な物たちをいつもと違った目線で見るよう促され、日用品の違った側面にふと気づかされる感覚がある。

通常と違った視線を要求されるという意味では池内晶子の作品も同様だと思う。とても細い絹糸を空間に展開した作品なので、その繊細な糸に視線の焦点をうまく合わせていかないときちんと見ることができない。特に壁に沿って絹糸を水平に張った作品は、そこに作品があることさえ気づかず通り過ぎてしまった人も結構多いのではないか。作品自体が繊細なだけでなく観る側にも繊細な視線を要求される作品だと思う。木藤純子の一番奥の部屋の作品も同様だろう。天井から桜の花びらのようなものが舞い落ちてくるのに気づかず部屋を出て行った人もいたかもしれない。

椛田ちひろの作品もまた、ボールペンの細かい線の集まりによって成り立っているもの。近くでよく見ると分かるが、鏡面のように黒光りしている部分も黒いボールペンの細い線をひたすら積み重ねることで描かれている。一見ただ簡単に黒く塗っただけのように見えるところにも時間と労力の積層が隠れている。でも、個人的にはギャラリーαMに展示されていた、手で描かれたアクリルの作品の方が面白かった。

他にも出品作家はいますが、とりあえずこんなところで。今回のMOTアニュアルは前回の「装飾」よりはずっと面白かったです。この展示はすでに終了しています。

「浅見貴子ー光合成」アートフロント・ギャラリー

アートフロントギャラリー(代官山)で行われた「浅見貴子ー光合成」展に行ってきた。大原美術館でのレジデンスで制作した新作など、旧作の小作品を含めて十五点あまり展示したとても充実した個展だった。浅見さんの展示はここ数年可能な限り観ることにしている。多摩美の日本画出身で、ジャンルで言えば水墨画にあたるのだが、日本画だとか水墨画だとかいう分類は(少なくとも僕にとっては)どうでもよくて、絵画を鑑賞する際の充実した体験を味合わせてくれる作品を描いている現在数少ない作家だと思う。
 
一見抽象的な絵に見えるが、よく観察すれば分かるように基本に樹木をモチーフとしている。即興的に感情に任せて描いているように見えるかもしれないが、事前に周到なデッサンをした上で本番の作品に取り掛かっている。そして水墨画という観点から特徴的なのは、最近の作品では紙の裏から墨で描いているということだ。したがって、油絵などとは異なり、最初に墨で描いた部分が表からは画面の一番手前に来て、後から描いた部分は画面奥の方に現れる。さらに、裏から描くので、表から見ると像が左右反転した形になる。いちいち表に裏返して確認することはできないので、左右反転した像がどのように見えるか、墨の染み込み具合が表からどのように現れるかということは完全にはコントロールできない形で描かれていくし、むしろその制御不可能性を浅見さんは積極的な条件として捉えていく。

浅見さんの絵を観てまず眼に付くのは大小様々な墨点だろう。木の葉を表しているようにも見えるかもしれないが、特に具体的な物を表象しているわけではないという。墨点が画面のなかでリズムを刻んでいて、そのリズムに誘われて観者の視線は画面の上を進んで行く。墨点の大きさは様々であり異なるスケールのものが混在しているので、最初は大きな墨点に注目していても不意に異なるスケールの墨点に眼が誘われていったり、さらには白抜きの同じような点や墨で描かれた樹の枝もあるので、突然現れる曲がり角のように視線がふと違う方向へ道を逸れていったりもする。異なる層にあるものや異なるスケールのものが一つの平面に混在していて、画面の上を視線がたどっていくごとに、エンドレスに思いもしないものへと眼が誘われていくのだ。視線がたどっていた層がいきなり異なる層へと反転し、さらにまた違う層へ反転していく…

今回の個展では十年以上前の小作品や四曲一隻の屏風絵など様々な作品が展示されていたが、もっとも惹かれたのは大原美術館のレジデンスの際制作された「景 muison-so」(2010)という205×75cmのかなり縦長な作品。そんなに多くの作品を観ているわけではないので確かなことは言えないが、これほど縦長の作品は浅見さんの中でもあまりないのではないか。墨の点が画面の大部分を覆っているほぼオールオーバーの作品なのだが、何度も言っているように画面が縦長であるために少し離れても一度に画面全体を視野に入れることができず、観者は何回も視線を画面上下に走らせることを強いられる。その時間性のなかであたかも薄い麻紙の内部を走査していくかのように視線が画面をたどっていくことによって新たなる空間性が観者によって築かれていくのだ。その空間性は決していつも同じものにはならなくて、観る仕方や観者によって毎回異なる形で空間が立ち現れるだろう。画面が縦長であることによってその時間性がより明確になり強調されるように思われる。
展示はすでに終了しています。

浅見貴子さんの個人サイトはこちら。浅見さんの作品を観られます。でも、実際の作品を観ないとなかなかその良さは分かりませんが。
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