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無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション

「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」@京都造形大学ギャルリ・オーブ

 展示会場で配布されるハンドアウトに掲載されているキュレーターのステートメントの末尾に次のようなことが書かれている。「本展がこれまでの「80年代」史観に異なる視点や議論を提供し、霧がかる多島海を航海するための、しなやかな櫂となることを願ってやまない。」「無人島にて」という展示を見て受けた印象はまさにこの文に表されていると言える。まず通常、日本の80年代美術を思い浮かべる時この展覧会の出品作家を挙げる者は少ないだろう。例えば上前智祐と言えば普通は具体所属当時の作品を思い起こすだろうが、あまり知られていない、布と糸で作られた80年代の《縫立体》という作品が本展では展示されている。そのような意味において、「無人島にて」展は今までの「「80年代」史観」に決して大仰ではないやり方で異議を唱えるものであると言える。そして本展ではそうした異なる「80年代」史観が提示され、あまり触れたことのない作家や展示作品が多いからこそ、そこは霧がかっているように感じられるのであり、さらには「多島海」のようにそれぞれの作家の作品は(今までの「80年代」史観から、会場の他の作品から)孤立した島として互いに緩やかな関係性を結んでいるのである。
 
 これから始まる「霧がかる多島海」の航海を象徴するかのように、展示冒頭には、黒い霧がかかったかのごとく薄暗い会場のなか、水の上を航行する舟を象った福岡道雄の《波・または》が置かれている。そしてその横には、作家自身がその上に乗ることによって作られた宮﨑豊治の立体作品《身辺モデル on a slanting surface》が(これもまた舟のように?)展示されている。さらに同じ部屋の奥には水を用いた笹岡敬の作品。
 
 次の部屋には、本展で最も印象に残った殿敷侃の、作品というより、ほぼ記録写真と記録映像の展示がある。注目すべきはその写真の展示方法であり、クロノロジカルではなく恣意的かつ暴力的に編集された形で並べられているのである。したがって一見似たような作品の写真が隣接して置かれていても必ずしも同時期の作品ではないこともある。シンプルな展示に見えるかもしれないが、写真の選択とその並べ方には、キュレーターの意思、つまり殿敷侃はこういう作家なのだという強い主張がそこに垣間見えるのである。
 
 そして最後の3つ目の部屋では、椎原保がまだ公開制作を行っており、もう片方のスペースには八木正の立体作品が4点置かれている。26歳の若さで早世した八木正の作品を見られるのもとても貴重な機会だろう。ミニマルでありながらも木という素材や木目を活かした作品。
 
 このようにして「霧がかる多島海を航海」してきた結果、そこに明瞭な海図のようなものが立ち現れることになるのだろうか? 「無人島にて」展は異なる「80年代」史観を提示しつつも、これこそ本当の日本の「80年代」美術だという「真正性」を確保しようとはしていない。展示にはキュレーターの明確な主張が見えながらも決してその主張を我々に押し付けるわけではないのである。そもそも本展のキュレーターは80年代生まれであり、これらの作品を当時の状況のなかで体験してきたのではない。したがって、ここで提示されているのは、あくまでも現代という地点から遡行的、アナクロニスム的に発見された「80年代」であり、そうした視点によってこそ初めて可能になった史観なのだ。そして展示を通して表されたその史観は、それを見た我々がまた遡行的に紡ぎだすだろう新たなる「80年代」史観のための土台、航海のための櫂のようなものとなることだろう。

「無人島にて」展はすでに終了しました
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